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21世紀の特撮怪獣映画を演出する 「前向きな」 リアリティ -映画 「シン・ゴジラ」 雑感

映画「シン・ゴジラ」に興味を持ったきっかけは、TVCMでした。


『シン・ゴジラ』TVCM①

市街地にそびえ立つゴジラのビジュアルとともに流れる、荘厳で悲壮な音楽。いわゆる怪獣映画のイメージとは全く異なる世界観が気になり、観てみようと思いました。

観てきた感想としては、大変面白く、質の高い特撮怪獣映画、ゴジラ映画だなと思いました。大好きです。とても気に入りました。鑑賞のきっかけになった音楽が使われたのがあの場面だったとは。驚きました。

ということで、少し雑感をメモしておこうと思います。

※以下、ネタバレを含みますので映画鑑賞前の方はご注意ください。


以下、ネタバレを含むため改行します。

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21世紀の特撮怪獣映画を演出する 「前向きな」 リアリティ


ゴジラ以外はほぼリアル」というのが、この映画の触れ込みです。まずキャッチコピーが「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」ですし、パンフレット(P28~)にもそう書いてありますし、制作側の人たちも各所でそう語っていますし、各分野に造詣の深い方々がお墨付きを与えていたりもします。(専門家からの不足点の指摘ももちろんありますが、それもベースとなるクオリティの高さあってこそでしょう。)特に専門的知識を持たない層でも、日ごろ見慣れた政治家の会見風景や災害情報提供欄つきのテレビ画面、ソーシャルコメントストリーム、市街地の風景などにリアリティを感じることができます。そうして観客一人ひとりが、「自分で受け取れるリアリティ」を積み上げていきながら、その類推として、自分が知らない部分にもリアリティを感じていき、最終的に「ゴジラ以外はほぼリアル」の触れ込みに納得し、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」のキャッチコピーに共感していく。実にうまくできていると思います。まさに、神は細部に宿るの体現ですね。


However, しかしながら、「リアル」のもう一つの側面である「目を覆いたくなるような現実」は、この映画では描かれません。市街地破壊の被害者や避難生活の様子も出てはきますが一瞬で、むしろ前段で書いたようなリアリティを補強する素材のひとつでしかありません。渦巻く権謀術数とか、困難な課題に取り組んではみたけどやっぱり能力が足りなかったとか、どうしようもなく運が悪いとかは、ない。登場人物はみな有能で協力的で、それぞれの立場できちんと成果を出せる。都内が火の海になって、内閣の主要メンバーがあらかた犠牲になって、巨災対のチームメンバーが半分になってしまっても、話を進めるのに必要な主要メンバーは全員、立川に揃います。ヤシオリ作戦でも、ちゃんとゴジラは上を向いて口を開けて倒れてくれる。世界も巨災対の取り組みを待って時間をくれるし、赤坂内閣官房長官代理も米国特使カヨコ・アン・パタースンも、一歩間違えば熱核攻撃の餌食なのに自分の立場を省みず首都圏にとどまってヤシオリ作戦を見届けます。こういう部分はリアリティと対局にあるドラマティックな演出です。

つまり、この映画で描かれているリアリティは、あくまでも「前向きなリアリティ」のみなのです。

でも、これでいいんだと思います。だって主役はゴジラだから。

巨大不明生物・ゴジラが衝撃的に現れて首都を景気よく破壊して、ニッポンの抵抗にビクともせず、いったんは世界を絶望と混乱のどん底に陥れて、それでも諦めないニッポンが放った窮余の一策、ヤシオリ作戦を「受け入れて」、東京駅で美しく凍り付いて屹立する。「シン・ゴジラ」はこれを描くための映画で、リアリティもドラマティックも、それを成立させるために最適配分で取り込まれている要素と受け止めればよいのだと思います。

以下の記事を読んでも、その思いを強くしました。

庵野さんと樋口(真嗣)さんとは「いまの日本にゴジラがはじめてきたらどうなるか」をやろうと。3.11を経験した日本に、ゴジラが来たら面白いですよねえと。それが最初に決めたことなんです。

bylines.news.yahoo.co.jp


ついでに、細部までリアリティを追及すると、観客が語るネタを提供できますし、各界の専門家も注目してくれますし、それを確認したいというリピート鑑賞ニーズも生まれます。リアリティ追及の出発点はおそらく、制作側の趣味なのだと思いますが、マーケティング面でも成果が期待できる、Win-Winの仕掛けですね。


その他の雑感

  • ゴジラの造形でいちばんすごいなと思ったのは、目。メインビジュアル、下からアオリで撮って目が合うってすごい。。。
  • 私がいちばん最初に興味をひかれた音楽が使われている中盤のクライマックス、ゴジラの熱戦放射シーン。首都を焼き尽くす炎の描写は文句なく美しかったです。パンフレットにもこの部分に触れた記事があり、興味深く読みました。
  • ストーリー進行に必要なドラマ性以外は隅々までリアリティを追及しているはずの本作で、唯一のファンタジーがカヨコ・アン・パタースンです。石原さとみさんの演技はとても良いと思いますが、「米国の意思を代表してやってきた、40代で大統領就任も夢ではない米国きっての名家パタースン家の惣領」という属性のキャラクターを与えるなんて、そもそも配役が筋違い。いくらなんでも石原さんがかわいそう、というくらいです。米語ネイティブで日本語できて知性的で育ちがよさそうでグッドルッキングな人なんて探せばいくらでもいそうじゃないですか。もっというと、そもそもステレオタイプな恋愛要素は排除したというなら、女性である必要もないじゃありませんか。長谷川博巳と石原さとみ、当代きっての美男美女をこれだけ長時間二人きりにして、これだけ深刻な会話をさせちゃったら、吊り橋効果でぜったい恋に落ちる妄想をする観客は多いと思うんですよ。そうさせちゃっていいんでしょうか。。。というわけで、なぜこの役を石原さとみさんにオファーしたのかが、よく分かりませんでした。庵野総監督の制作発表時のコメント「紆余曲折」に本件は含まれるのでしょうか。
  • おそらく尺の都合なのだとは思いますが、すこし残念だったのは、「ネーミング」の描写がそっけなかったことです。たとえば「ゴジラ、どういう意味だ?」と矢口が問うと、秘書の志村がPCを検索して「1件だけありました。教授の故郷の大戸島で神の化身を意味するそうです」とすぐに答える。教授の存在を知った直後に、もう故郷が大戸島ってすぐわかるのかなあ、とか小さいことが気になるわけです(笑)。あと、作戦名について矢口が「長いですね。ゴジラ凍結作戦も子どもっぽいですから、ヤシオリ作戦にしましょう」と決めるシーン。矢口が名前を重視するキャラクターである、というエピソードは描かれていましたが、あの場で矢口一人の意思で「ヤシオリ作戦」という衒学趣味的な名前が決まるのは、ちょっと寂しい気がします。まあ描かれないだけで、もともとチーム内ではそう呼ばれていた、ということなのかもしれませんが、名前が決まるシーンは見たかったな、と。誰が名付け親なのかも含めて。
  • 尾頭さん?強いよね。序盤、中盤、終盤。隙がないと思うよ。 思わずこう言ってしまいたくなる完璧キャラの尾藤ヒロミ課長補佐ですが、ラストシーンではじめて素敵な笑顔を見せてくれます。首都圏の除染の見通しが立つことに対する安堵の笑みですが、ゴジラ上陸の可能性や動力源など、これまで常に真実を言い当てる存在であった彼女が安堵の表情を見せたこのシーンが、物語の(この時点での)大団円のマークなのかな、と感じました。
  • ゴジラに対して多国籍軍が熱核兵器の使用を決議、というのもよくわかりませんでした。核分裂で動作するものが核兵器で滅却できるんですかね?普通に考えると、巨災対と同じ結論に達して、巨災対を全面バックアップする、みたいな展開になりそうな気がするのですが。ここは、話をシンプルにするためにこうしたのだ、とか、逆にもっと深読みしたりして楽しむ部分なのかもしれません。
  • プレジャーボートに残された文学書「春と修羅」。妻を喪った悲しみを描いた文学作品としては「智恵子抄」なども思い起こされますが、やはり「俺はひとりの修羅なのだ」という表現が、この場にふさわしいと判断されたのでしょうか。